DJ JIN(ライムスター)「受け継がれるのには、理由がある」
スペシャルインタビュー vol.1

受け継がれていく本物にインタビューをする記念すべき第一回は、ライムスターのDJ JINさんに、お話しを伺いました。
インタビューをさせていただきました2023年は、ちょうどHIPHOP 50周年の年。今ではメジャーとなった日本のHIPHOPシーンを黎明期から支えるDJ JINさんに、これまでの歴史と今なおレコードで回し続ける理由について伺いました。

HIPHOPとの出会い

DJ JIN INTERVIEW

僕の家は、父がコントラバス奏者で、母はバイオリンとピアノの先生をやっているという音楽家系で、家の中では、常にクラシックが流れている環境でした。
中学生の頃から徐々に、友人のおにいちゃんが聞いている洋楽のロックやポップスを、耳にするようになりました。そして、高校生になり、地元横浜のCIRCUSというディスコでHIPHOPと出会うことになります。
当時の横浜のディスコは、米国の軍人も集まり異国情緒溢れる空間でした。もちろんディスコやクラブはレコードしかない時代。そこで流れるR&B やソウルなどがすごくかっこよかったのですが、まだまだ日本では一般的でなかったHIPHOPが新鮮でとても惹かれたことを覚えています。
当時は、400人くらい同級生のいる高校に通っていたのですが、HIPHOPが好きという人は1人もいませんでした。インターネットも、まだなかったあの頃は、自分の好きな音楽を調べることも難しく、どのようにすればDJを始められるかもわかりませんでしたね。衝動はあったのですが、大学に行ってからDJしようと思い進学をしました。

ライムスターへの加入

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早稲田大学へ進学し、HIPHOPやDJが好きな仲間を探そうとしたのですが、なかなか見つからず、勧誘されるサークルは運動系などが中心でした。
様々なサークルから声がけされる中、正門前でR&BやHIP HOPをターンテーブルでDJプレイしている集団がいました。その集団はソウルミュージック研究会というグループで、「やっとHIPHOP好きな仲間と出会える!」そう思い、すぐにその研究会に入ることに決めました。
その研究会には、なんとすでに結成されていたライムスターがいました。当時は、大人数でメインのメンバーはいるものの、その時その時で編成が変わる今と違う形態のグループ。もちろん、現メンバーの宇多丸とMummy-Dも在籍していました。
その後DJ を始め、ライムスターに入っていくのですが、まだまだ市民権のないHIPHOPで飯を食っていくのは難しい時代。大学卒業後にどうやって音楽を仕事にするか考えていた時に、まずは在学中から専門誌の編集部でアルバイトをすることを思いつきました。
ブラックミュージックレビュー(略称:BMR)という雑誌の編集部にアルバイトをとして使ってもらえるかどうか飛び込みました。日頃はアルバイト募集もしていなかったのですが、ちょうど編集部員の手が足りない状況で、猫の手も借りたいということで、すぐに面接を行なってもらいました。その時は、全身迷彩の洋服で、かなり怪しい目で見られました(笑)
しかし面接でソウルミュージック研究会ということを伝えて素性を明かし(笑)、HIPHOP についての思いを話したところ、即採用してもらいました。

就職とアーティスト活動

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大学卒業後は、まだまだ音楽だけで生活できる段階ではなかったので、タワーレコードに就職しました。
就職した96年は、橋本徹(※1)さんがbounceという音楽フリーペーパーの編集長に就任し、僕も編集部員として働きながらライムスターと個人のDJという活動を行ないました。
当時、ライムスターの宇多丸もライターとして雑誌に寄稿したり、ブッダ・ブランドのデヴ・ラージも連載をもつなどしていました。まだ日本には、HIP HIPの正しい情報が少なく、アーティスト自身が、自分たちの音楽だけでなく、HIPHOPの魅力を伝える為に、国内外の新譜のレビューや、それにまつわる音楽の変遷を紹介することで、HIPHOPを広める活動をしていました。

※1)橋本徹:
雑誌『ホットドッグ・プレス』の編集部で働く傍ら学生の頃から行っていたDJ活動行う。独立後は、フリーペーパの発刊や、イベント、コンピレーションアルバムのプロデュースをするなど多岐に渡った活動を行い、96年から99年までフリーマガジンbounceの編集長に就任。25万部以上刷りながら毎号発行後10日ほどで店頭からなくなるという大ヒットを記録する。

ライムスターとして表紙を飾る。レコードブームの到来

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ライムスターの代表曲「B-BOY イズム」を発売し、アルバム「リスペクト」を出すタイミングで、タワーレコードを退社することになりました。退社のタイミングのbounceの表紙を飾りました(笑)。いい餞(はなむけ)をいただいたことを記憶しています。
また、1990年代後半当時の渋谷ではレコード屋がひしめき合うレコードブームが起きました。
とはいっても、もちろんCDがメインの媒体だったのですが、国内でもHIP HOPをベースにしたアーティストがヒットを重ね、ダンスブームもありDJ人口が増加し、レコードの人気も加熱。一枚のレコードに数万円のプレミアがつくこともありました。
HIP HOPに携わる人たちが地道に、魅力を伝え続けたことがこのブームを作り上げた要因のひとつになったと思っています。
プロのミュージシャンとして音楽に携わるようになり、嬉しさもありましたが、2000年以降のアメリカでHIP HOPがメジャーな音楽となっていき、かつての初期衝動だけではなく商業ベースも加味したスタイルに変わっていくことで、寂しさも感じていました。

コストのかかるレコードとPCでDJをする時代の到来

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ライムスターでライブをするときに重要な要素となるオケの音源問題。
ライムスターのライブでは、いまだにアナログレコードも使っています。
かつてレコードでライブ用のオケをリリースした曲についてはレコードを音源にしています。
ただ、ライブオケの為だけにレコードをプレスすることはコストがかかりすぎるため、いま現在、レコードでライブオケをプレスしていない楽曲は CDJを使ってデータ でプレイしています。
もちろんライブの中で、古いファンクのレコードの2枚使い(※2)などレコードでプレイできるところは、できるかぎりレコードでプレイしています。

※2)2枚使いとは:
2枚のレコードを交互に再生し、ビートを作る手法。


2000年代に入り、CDJが台頭し2000年代中盤にはPCでDJするコントローラーが現れ次第にPCでDJする人が主流になってきました。
しかし、ライムスターでは、ステージ上にPCは置かず、アナログレコードも使ってプレイするスタイルにこだわり続けています。
個人でのDJ活動では、CDも使わずにレコードだけでプレイし続けることにこだわり続けています。周囲の有名なDJもPCでDJをするように変わっていき、“まだ”レコードでプレイしているんですかと質問される時も多々ありました。
しかし、こだわりを止めることなく、それは今も続けています。

レコードでプレイし続ける

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一番の理由は、音が気持ち良いというコト。
小さい音では、そんなに変わらないこともあるのですが、大きな音で出すと、データから流しているのかレコードで流しているのかで、音の違いが出てきます。
そしてDJとして人前でプレイする上で、重要な点が所作。どんな音楽を伝えたいのかと考えたときに、僕はレコードでプレイするというスタイルを選びました。それはどんな動きで、どんな表情で、どんな選曲と音の調整をするのか、一つ一つの所作にこだわることで、DJ JINというスタイルを表現していると思っています。
今はインスタントにDJができる時代です。だからこだわり続けて、簡単には真似のできないDJスタイルでプレイし続けることが重要だと思っています。

HIPHOPは、2枚の同じレコードを使ってドラムソロのパートを繰り返しかけたことが起源とされています。そのビートの上でダンスやラップをのせる。フロアのお客さんがどんな人なのか、その人たちはどんな表情で、どんなことを求めているのか、そのフロアに流れている空気感を感じ取って、アナログレコードを2台のターンテーブルにセットして音を流す。
まさにフィジカルコミュニケーションであり、これはAIにも絶対に追いつけない領域だと思っています。

受け継がれるには理由がある

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ただ選曲して流すだけではなく、フィジカルで表現、そしてコミュニケーションするHIPHOPに魅了されました。そのスタイルが好きだからやり続けている、好きだから続けている、そして続けるためにやっている。
本当にそれだけだし、このスタンスで音楽が続けられていることは、ものすごくすばらしいことだと感謝しています。
音楽を通して、次の世代にこのことが伝わったら嬉しいですね。

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